東海聖化交友会 発行日 2001年4月15日
東 海 聖 会 報 発行人 東海聖化交友会・無関正秀
No. 11
きよめと実際生活 教派の流れ
基督兄弟団
全国の聖化運動と
東海聖化交友会
推薦図書
聖化−聖徒は作られて行く
推薦図書
「聖化一聖徒は作られて行く」 ホリス・F・アボット著
インマヌエル名古屋東教会   国 邑 安 美
 18世紀のメソジスト運動前後から、「聖化」
について数ある書籍の中で、最も新しい部類
に入るのが本書である。その新しいという意
味は、装丁やたくさんのイラスト、丸ゴシッ
ク体という字体と比較的大きめの文字、現代
的な平易な日本語に翻訳されていることなど
である。しかし、そのような外面的なことだ
けではなく、聖化についての見解の新しさと
いうことも本書の大きな特色である。いわゆ
る、古典的な「聖化」の文献に親しんできた
方にとっては少し違和感を覚えるようなこと
が本書に記されている。著者はそのことを理
解し、「はじめに」の中で、ご自分のあかしを
しておられる。「私は、聖化の転機的な面が非
常に強調されている教会で育ちました。(中
略)教会で教えられたことと日常生活の諸経
験は、必ずしも一致しないものだということ
が分かって来ました。私自身、こんなことが
あって良いものかという問題をかかえており
ましたし、更に、『潔められた』(はずの)信
者の中にも同じことを見たのです。」(P9)こ
の問題意識と葛藤から本書は誕生し、特に新
約聖書の中から発見したことを中心に構成さ
れている。ゆえに、聖化についての全体をカ
バーするものではなく、聖化後の歩みについ
て重点が置かれている。
 本書の第二の特色は、これまで聖化につい
ての表現として用いられてきた「根絶」とい
うことばについて言及されていることである。
「もし罪の根が人の性質から根絶されてしまっ
たならば、どうして信仰からの逸脱が起き得
るだろうか」(P57)という疑問に対して、著
者は罪の本質は何かという点から見直してい
る。それは、「神に逆らう自己中心的精神」
(P58)であるとし、神の解決方法は、それを
「十字架につけること」である。その十字架に
つけられるべきものは、「本質的な自己」では
なく、神に逆らう自己である。別の言い方を
するなら「神の御意とイエス・キリストの主
権に対して心から帰依するために、私たちの
主権の放棄」(P62)である。この時に、「私で
なくて、キリスト」(ガラテヤ2章20節)のみ
ことばが成就するのである。
 第三の特色として、きよめの「経験」中心
の考え方よりも、「キリスト」中心の考え方に
切り換えることである。いつ「きよめ」られ
たのかという時間的要素や過去の経験にこだ
わることよりも、今私はキリストとの「関係」
の中で歩んでいるかどうかの方が重要なこと
である。著者は、神学的な背景や、表現する
用語にこだわることよりも、むしろその後の
歩みを強調している。その時に鍵となるのが
「満たされる」という用語である。聖霊は人格
であるのに、ある物質が器を満たすことを連
想して、誤解され易いことを指摘しながら、
聖霊に満たされることは、「人生の支配権が全
く神に明け渡されるその時です。御霊の満た
しの必要条件は、全き明け渡しです。」(P120)
 個人的に、最近本書を読む機会があり、多
くの光が与えられた。それは「根絶」や「満た
し」について、何らかの「物」であるかのよう
にイメージし易いところがあったことや、い
つ「きよめ」られたという時間的要素に捕わ
れ易いところなどである。著者と同じような
問題意識を持ち、今の自分の姿と教えられて
いる聖化についてギャップを感じている人に
とって本書は大きな助けとなる一冊である。
きよめの「経験」中心の考え方よりも、「キリ
スト」中心の考え方、つまり、日々キリストと
の「関係」の中で歩み続けてゆくなら、ともす
ると、聖化によって「狭く」なりがちな考えと
生活が、反対に「広く」なることを味わえるで
しょう。

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