東海聖化交友会 | 発行日 2002年4月15日 | |||
東 海 聖 会 報 | 発行人 東海聖化交友会・無関正秀 | |||
No. 12 | ||||
これは主の働き・ 霊の運動です |
教派の流れ ウェスレアン・ホーリネス |
無関正秀先生への 感謝と追悼 |
「子ども日日の光」 「祈りによって世界を動かすく |
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無関正秀先生への感謝と追悼 (無関先生葬儀時の式辞大要) |
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活けるキリスト神戸一麦教会牧師 | 子 安 敏 夫 師 | |||
無関正秀先生は1932年、石川県にお生まれになりました。15歳の時より大阪の薬局に勤務され、その中で教会に導かれたそうです。そして翌年16歳の時、大阪日本橋教会にて洗礼をお受けになりました。やがて1957年1月に持たれました一麦の群の新年聖会において、その最後の日、故松原和人師の火の出るような献身の招きに応答して先生は福音宣教のために立ち上がられたのです。 その年の4月より無関先生は名古屋の一麦教会に修養生として来られました。当時唯一の財産であった自転車に乗って、鈴鹿峠で夜を明かし翌日午前に名古屋に到着されたとお聞きしております。 修養生時代、無関先生は和人師より「さっぱり居士」というあだ名をいただいておりました。何を聞かれても「さっぱりですわ」と口から出てくるのは否定的な言葉ばかりだったということです。否定的なことがお嫌いな和人先生はよく首を振ってそれをお聞きになっておられました。ところがやがて聖めの恵みにあずかり、先生はそれまでとは一変してしまわれました。 私もその年の秋に遅れて献身生活を始めさせていただいたのですが、その時既に無関先生は先輩修養生として毎日、小旗を持って近隣に出て行き一人で路傍伝道に励んでおられました。7年ほど名古屋の一麦教会で生活する中で、後の守山教会になる伝道所の担当を任されるようになりました。やがて1964年の2月より守山の開拓伝道を本格的に開始され、同年11月にはエツ先生と結婚に導かれました。その後一女二男を与えられ、今日においてはお孫さんを6人 お持ちでした。 1972年には一麦の群の正教師として按手礼をお受けになりました。以来守山一麦教会の牧師として牧会伝道に励んでこられ、特別、弱い者、病める者に御愛を注いでこられました。 |
先生は神癒に強い使命感を持っておられ、多くの方々の求めに応じて癒しを祈り、キリストに導いておられました。さらに群の副委員長、按手礼委員などを務められ、また対外的にも東海聖化交友会の委員長のお役を拝命しておられたと御聞きしております。 先生の召天に際してお祈りをしております時に私の心の中に「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。」(イザヤ11:1)との御言葉が与えられました。イザヤはここでメシヤであるイエス・キリストについての預言をしているのですが、それと同時に私は次のような光景が心に思い浮かびました。 森に一際高くそびえ立つ大木があります。そして、鳥や獣がその木の下で守られ支えられて暮らしています。動物たちはその木から食べ、雨風から守られていたのですが、ある日その木は暴風雨によってなぎ倒され根元から折れてしまったのです。動物たちは動転し悲しみ途方に暮れてしまいました。これからどう生きて行けばいいのか、どこへ行ったらよいのかと。 しかし、不思議なことに折れてしまったその根株から新芽が何本も生じて来たのです。やがて何十本もの若枝となり、花を咲かせ、実を結ぶ木々となってゆく、そのような光景を私は思い浮かべました。 「一粒の麦地に落ちて」との御言葉は一麦の群の名前の由来でもあります。この御言葉がまた一つ私たちが敬愛し信頼してまいりました無関正秀先生の召天の意味を説く一つの鍵ではないかと思います。 残された者たちは先生が今日まで注いでくださった御愛を感謝すると同時に、家族を支え励まし、共に手の御前を歩んでいただきたいと心から願います。 |