東海聖化交友会 | 発行日 2003年4月15日 | |||
東 海 聖 会 報 | 発行人 東海聖化交友会・小林光生 | |||
No. 13 | ||||
とげのついた棒を蹴って 血だらけの者が恵みに変えられて |
教派の流れ チャーチ・オブ・ゴッド |
内山富雄牧師召天に際し 中村和子牧師を偲んで |
推薦図書 B.F.バックストン 「キリスト・無尽蔵の富」 |
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私たちの国籍は天にあります | ||||
内山富夫牧師召天に際して | 亡妻 和子牧師を偲んで | |||
インマヌエル岐阜教会 | 内 山 和 恵 | 名古屋城北教会 | 中 村 健 | |
故人略歴:1926年東京に出生。48年5月受救。49年1月に聖化の恵に与り、同年召命を受け、50年聖宣神学院に入学。53年卒業し、静岡県金谷教会に赴任。同年結婚。57年名古屋教会。66年森教会。69年浜田教会。76年四日市教会に転任。2002年岐阜教会に転任。同年10月7日、肺ガンのため76歳で召天。 次に本人の証を記します。 「救い主の聖名を賛美致します。主イエス様の計り知れない恵みの中に、このような者が置かれておりますこと感謝です。これは主イエス様によるものであり、ただ主イエス様にお従いして来ただけでございます。1948年5月26日の夕、教会に行くように聖霊に促されて教会を探し飛び込んだのでした。・・・中略・・・その夜手を挙げて主を信ずる決心を示し祈って頂きました。その時から主イエス様は共にあってくださり、翌朝目覚めた時は別世界にいるような気持ちで、この時から主イエス様による信仰生活が54年になりました。」(02年5月20日遺言と共に書いたもの) 故人は主を心から愛し、主と共にある恵みを知ることにより、主と、主の教会に仕えることが許されました。02年8月7日の最後の祈祷会で、創世記5:22「エノクは・・・神とともに歩んだ」より、神に祈りながら≠ニ語りました。「ひと足歩むたびに、主イエスの導き知り、最後のひと足までも主イエスとともに歩む」ひむなる155番の賛美歌は、愛唱歌の一つです。主の聖声を聞き、主と交わりつつ、天国に移された感を深くしています。東海聖化交友会の先生方や皆さまに、お交りとお祈りを頂きました事を心より感謝申し上げます。(マタイ28:20) |
和子は大阪で生まれ、13歳の時心臓を患い医師から他の病院にと勧められたのですが、父親は「空襲の激しい時ですから、是非先生に」とお願いした暗から快方に向かい、戦後宮崎に移ってからは健康そのものでした。 宮崎ではホーリネスの群れの吉間磯吉先生の教会に通い、SSの教師の奉仕をし、女学校の同級生を教会に誘い、その中には日基教団中島恵美子牧師がおります。 一家が静岡に転居した時、近くで十字軍の天幕集会があり、妹と一緒に悔い改めて救いの確信を得ました。二人の変化を両親が見て共に救われ、弟・妹と合せて一家8人が救われて今の静岡ホーリネス教会の基ができたと聞いています。 家内が献身した翌年、私も献身しました。学院で学ぶ時は、顔も合わせず言葉も交したことが無かったのですが、卒業式の後で挙式して名古屋に来ました。 戸惑うことがありましたが、家内が従ってくれました。婦人会と日曜学校を受け持ってくれて教会と家庭が守られました。 13年後心臓病が目を覚まし、7年の療養の未、人工弁をつける大手術をしました。その時、未投函の手紙に「主は私が病むことすら教会の成長、また子供たちのために益として下さっていることに胸が熱くなる思いでございます」と記しています。術後18年経って舌ガンの発症があって、がんセンターで治療を受け、次に愛知国際病院ホスピスに転院し、子供と交代で付き添ったのですが、「こんなに大事にしてもらっているなら、いつ死んでも構わないわ」と漏らし、最後に聞いた言葉は「ありがとう」でした。 |